「青柳和身さんが2023年11月14日に逝去された」というニューズが基礎研の情報網に流れ、びっくりしました。24年3月の基礎研の臨時総会の場で、研究面でのつながりの深かった大西広さんが、研究所を代表して、青柳さんの追悼の辞を述べられました。
青柳さんとの出会いは1966年4月の京都大学経済学部への入学時にさかのぼります。教養課程では、学生自治の単位が第2外国語の選択語別クラスでした。彼はロシア語、私はフランス語を選んだ関係で、「フランス語・ロシア語」の混成クラスに二人とも属し、学生自治の活動を共に行いました。
当時、私は18歳、青柳さんはすでに20歳前後でしたので、自ずと風格がありました。彼は自分の考えを臆せずに語る人で、「日本の政治家たちが、戦時中に何を語り、どんな活動をしていたか」を子細に調べ上げ、世に公開する活動を展開したら、日本は変わるよ」と発破をかけていたことを思い出します。
3回生時の「専門ゼミ」選択で「西洋経済史の尾崎芳治ゼミ」を選んだ関係で、付き合いは深まり、大学院進学後も、同じ「尾崎ゼミ」で通してきた仲でした。時代変化のなかで、尾崎ゼミ関係者のなかで、基礎研に属する者は減り、最後は青柳さんと私の2人だけとなりました。
旧姓は渡辺和身さん。大学院受験仲間の青柳憲子さんと結婚された折に、改姓されたのですが、「昔の仲間」は、「ナベチャン」という「古い愛称」で、呼び続けました。コツコツとロシアの共同体農村の研究を積み重ねられ、鹿児島経済大学、岐阜経済大学に長く勤務。ソ連崩壊後のロシアに長期に滞在され、ロシア人の性風俗が、いかに日本と違い、開放的かという体験談、あるいは自家用車を用いた「白タク」営業の蔓延ぶりをよく聞かされました。
考え方は微妙に異なることもありましたが、実に誠実な方でした。
第2麩屋町ビルの地に基礎研が事務所を構えていた時代(1999年9月―2020年5月)、私がチュータを務める「人間発達ゼミ」は、この事務所で日曜日の午後6時前まで開催され、青柳さんがチュータの「ジェンダーゼミ」も、同じ部屋で、午後6時から開かれることが多かった。そのため、浜松の地から、身銭を切って来訪される「ナベチャン」と、数分間、お会いすることが多く、互いの健在を確認し合う得難い機会でした。
彼は、労苦を惜しまず、自らで「ゼミ通信」を書き、メイルで発信する人でもありました。青柳さんの奮闘に学び、最近は私も、「人間発達ゼミ」(天然人ゼミ)の「ゼミ通信」を作成し、発信しています。冥福を祈ります。
(2025年5月7日稿)