大阪経済大学で長らく西洋経済史を担当されてきた本多三郎さんが、2025年4月28日に逝去された。享年81歳。
本多さんは1944年5月9日のお生まれ。戦災の余波を受け、両親とは別れ、西淀川での4畳半のアパートに子供だけで暮らす時期もあった。このような逆境のなか、本多さんの「思いやり深い人格」が育まれたのであろう。
本多さんと私とは、京都大学大学院経済学研究科の尾崎芳治ゼミの第1期生同士であった。私のほうが3歳若く、甘えさせていただく関係にあった。本多さんに関するかぎり、嫌な思いをした体験は一度もない。
今から50年前の1975年の7月頃、私も本多さんも、博士課程を終えても就職の展望のない「逆境」にあった。この折、勤労者にも「生涯学習の人権」を保障するため「経済科学の夜間通信大学院」を創設しようという運動が沸き起こっていた。設立母体として、京都の地に「基礎経済科学研究所」(基礎研)が立ち上がった。創設運動の中心人物は、後に大阪経済大学学長となる重森 暁さん、過労死問題にとりくんだ森岡孝二(関西大学)さん、そして京都大学の池上 惇さんだった。
当時、基礎研は半専従スタッフ2人を募集していた。総務担当として採用されたのが本多さん。教務担当として採用されたのが私であった。
立命館大学広小路学舎の北側の芝山ビル4階にラジオ技術者養成の専門学校があったのだが、その一角が「夜間通信大学院」の教室と事務所になった。
10坪ほどのスペースの壁面を使って、本棚を作ろうという話となった。この種の大工道具を一手に引き受けられたのが本多さん。見事な出来ばえで、大学に職を得られなくても、本多さんなら大工として生きていけると思った。
私にできたことといえば、近くの出町の商店街を回って、日用品を買ってきたり、資本論を読んでみたいという勤労者を募集すること。給与は月額3万円と高くはなかったが、「世のため、人のために活動している」という実感が、私たちの逆境期を支えてくれた。
基礎経済科学研究所での私の雇用は1年で終わったが、本多さんのばあい大阪経済大学に就職されるまで、3年ほど勤務され、『労働と研究』といった機関紙を発行されたり、各種のゼミ活動を支えてられた。大英帝国とアイルランドの植民政策と、日本帝国の建設活動と朝鮮の植民活動とを比較・考察する論稿を発表されるなどもした。
この夜間通信大学院は、後に「夜間通信研究科」、「自由大学院」と改称されたが、昨年10月に無事に50周年を迎えることができた。本多さんが中心になって開設された「社会構成体発達史・大阪ゼミ」は、今も月に1回のペースで開かれている。最近は、田中宏さん(立命・経済)がチューターとなり、ドイツ留学中の斎藤幸平さんとの交流ゼミを成功させたり、アナーキスト人類学者のデービッド・グレーバーの著作に取り組んだりしている。
昨年1月に、生前の研究を集大成すべく『ブリテン資本主義下のアイルランド農業――土地戦争の経済史的背景』を完成された(2025年1月、思文閣出版)。830ページという大著だ。病魔に抗して出版に至ったことは、素晴らしいことだった。
2025年10月11日に『本多三郎さんを偲ぶ会』を尾崎ゼミの関係者で開いた。楽友会館を会場とした「偲ぶ会」の方には26名が参加。高知の松永健二さん、広島の加藤房雄さんからは心のこもったメッセージが届けられた。「本多さんの経歴」を西村 弘さんが紹介され、遺作の『ブリテン資本主義下のアイルランド農業』の書評は、今田秀作さんがなされた。総合司会を島 浩二さんが務められ、全体の会計実務は、幸田亮一さんが担当された。
二次会の企画が私の担当であった。楽友会館近くの「平わ」レストランで開かれた「懇親会」の方には16名が参加され、楽しく交流できた。恩師の尾崎芳治さんの一人娘の溝手左知さん夫妻も残られて、旧交を温めることができた。
「人は2度死ぬ。最初は肉体的に、次に人々の記憶から」といわれる。多くの人の心に「記憶」されている限り、その人はRe-member(メンバーとして更新)され、不死となるのだろう。このような「追悼の集り」ができたことは本多さんの人徳の賜物であり、有難く思った。 合掌。
