藤岡 惇
私の父親は若い頃、一兵卒(二等兵)として徴兵され、2年ほどの間、満州各地で警備の任務についていました。上等兵として除隊しましたが、「幸い、シナ人を殺さずにすんだが、シナ人は可哀そうだった、冬の満州がとても寒かった」という話を父から聞きながら、私は大きくなりました。
京都の大学に入学した1966年に「文化大革命」が始まりました。理想社会の淡い夢を中国に託していた私は、第2回「学生友好参観団」の一員として、外国旅行を初体験。杭州は西湖の畔で、紅衛兵の一団と出会ってびっくり。この学生訪中団運動は「斉了(ちーら)会」の下で、72年まで8回続いたようですが(福岡愛子『日本人の文革認識』2014年、249-285頁)、文革が暴力的争乱に化すことを見て、私は中国への関心を封印。その後米国と非暴力運動の研究に沈潜しました。
2018年の8月下旬、「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」関西支部の企画した旅に参加する機会をえました。半世紀ぶりに、本格的な中国の旅を再開したわけです。2点、感想を述べます。
第1点。日本軍が占領・操業・建設した炭鉱や要塞周辺では、すさまじい殺戮と強制労働が展開されたことは、否定すべくもありません。私の父親は28年前に亡くなりましたので、満州のどこを警備していたのか、万人坑の現場を見たのか、処理に携わったのか、などの詳細を聴くことができなくなりました。とはいえ、このような抑圧体制を警備・保安する末端で働いていたことは、否定できないと思います。
帰国後、立命館大学国際平和ミュージアムのメディア資料室で、青木茂『万人坑を訪ねるーー満州国の万人坑と中国人強制連行』(2013年、緑風出版)、関谷興仁さんの『悼 Ⅲ--強制連行=万人坑』(2013年、朝露館、栃木県益子町)、西成田豊『中国人強制連行』(2002年6月、東大出版会)などを読み、いっそうリアルな映像が浮かび上がってきました。ただしその真実をめぐって、日本の若者と中国人との間に巨大な認識ギャップが生まれています。これをどう埋めたらよいのか。
阜新の万人坑博物館見学後の懇談会の場で、アウシュビッツ収容所との比較を念頭に、次の質問をしました。①この強制労働キャンプには30万人が収容され、万人坑には7万人が埋められたと記されていたが、その根拠は?②解放前に放免・脱出できた者は、何名?③日本軍降伏時に、発見・解放された者は何名?④この施設を訪問する日本人は年に何名?
④の問いに関しては、年間、数百人程度という答えを得ましたが、他の質問には具体的な答えがなく、残念でした。私は、①展示内容のいっそうの改善、②インターネットで動画を含めて、日本語で積極的に公開してほしい旨を要望しました。日本側の学術的リサーチの業績は、先の西成田さんのものを例外として極めて少なく、先ずは日本側の奮起が望まれますが、インターネットで説得力のある優れた映像や資料が公開されると、日本の教育現場(とくに大学)へのインパクトは絶大だと思います。
2点目。「真実総体の解明を悔悟・更生・信頼・再発防止・和解」につなげる「戦争犯罪裁判」はいかにあるべきか。撫順の到達点をどう評価するかという問題です。東京国際軍事裁判のばあい、「死人に口なし」とばかり、A級戦犯7名の処刑に終わりますが、東京にも撫順方式が採用されるべきであったのか。もし採用され、東条英機以下、数百名の戦犯たちが、判決後に真実解明と贖罪のための講演旅行で津々浦々の学校を巡ったとしたら、日本の戦後史はどう変わったかという問いです。
文化大革命時代に「日本人戦犯を甘えさせた」罪で、撫順戦犯管理所の金源所長以下、職員多数が、文革派によって迫害されたこと、金所長など元職員8名の1984年の日本招聘が、文革の是非をめぐって分裂していた中帰連の統一回復のきっかけとなったことを中国帰還者連絡会編『帰ってきた戦犯たちの後半生――中国帰還者連絡会の40年』新風書房、1996年。熊谷伸一郎『なぜ加害を語るのかー―中国帰還者連絡会の戦後史』(2005年、岩波ブックレット)から学ぶことができ、有益でした。
(『撫順の奇蹟を受け継ぐ会関西支部 ニューズ』42号、2018年11月)