わが恩人の一人――アルン・ガンディさんの書いた『おじいちゃんが教えてくれた、人として大切なこと』が2024年6月にダイヤモンド社から刊行された。この本を読み、2023年5月2日にアルンがインドで亡くなったことを知った。90歳で逝ったアルンの遺著が本書だ。
彼は、1934年4月14日に南アフリカのダーバンで祖父のモホニダス・カラムチャンド(尊称マハトマ)・ガンジーの創ったフェニックス・アシュラムの地で、ガンジーの次男の長男として生まれた。マハトマにとっては5人目の孫となる。
アルンのことを知ったのは、NHKのテレビ番組「家族の肖像」で放映されたことから。番組制作者のNHKディレクターの塩田純さんに教えてもらい、米国に住むアルンと連絡をとった。1999年3月に訪米。3月8日にメンフィスのクリスチャン・ブラザーズ大学に「M.K.ガンディー非暴力研究所」を開設していたアルンとスナンダ夫妻と会った。メンフィスとは、深南部――私が参与観察してきたヤズー・ミシシッピデルタの北端に位置し、キング牧師が暗殺された町だ。
99年11月末に立命の国際平和ミュージアムを舞台にして、有志教職員と学生集団で自主企画していた『新たな千年紀を迎える若者たちの国際交流の集い』の招待講演者候補の一人となっていたアルンと会い、訪日の打診をすることが目的であった。同年11月の日本初訪問を彼は快諾し、広島・長崎・沖縄への訪問にも強い関心を示してくれた。
この企画は、大学の公式行事ではなく、有志の自主企画。ミュージアム館長の安斎育郎さんがまとめ役。私と、近畿大学の英語教員のロバート・コバルチェックさん、それに学生有志が事務局を担っていた。招待者の枠は2人。英国でシューマッハー・カレッジを創設していたジャイナ教修道僧の経歴をもつサティシュ・クマールさんをロバートが推薦し、私がアルンを推薦した。当時、立命の国際関係学部にいたヨハン・ガルツゥングさんが知恵袋の役割を果たしてくれた。
1999年11月23日(火)に、妻のスナンダさんとともに来日。学生実行委員の5名とともに関西空港で迎え、末川記念会館に泊まってもらった。25日には、立命館宇治高校にて、「わが祖父ガンジーの非暴力平和運動の意味」について講演。11月27日―28日に平和ミュージアムを舞台にして開催された「新たな千年紀を迎える若者たちの交流の集い」に助言者として参加してもらった。サティシュ・クマール、ヨハン・ガルツング、そしてアルンの織り成す協奏曲は圧巻だった。
12月1日スナンダさんはインドへ旅たち、第2部の「広島・長崎・沖縄の旅」はアルンだけの参加となった。広島での講演会では広島平和研究所の藤川伸治さんに協力していただき、大成功。藤川さんは、教育労働者の労働時間規制こそが、労働組合運動の先決テーマと唱えた先覚者でもあった。
12月2日には、アルンとともに、長崎を訪問した。市長表敬訪問の後に、教育文化会館での講演会には70名が集まった。講演内容は、『長崎平和研究』9号、2000年4月号、109-123ページに掲載された。翌日には城山小学校を訪問。12月3日夕刻には大村空港から伊丹空港に飛び、京都に戻った。
その後、12月5日ー8日には、私のゼミ生であった中嶋大輔さん(後に、「トランセンド研究会」事務局長として活躍された)のアテンドを受け、アルンは沖縄への講演の旅を続けた。「すべての人に花」を歌う喜納昌吉さん(チャンプルーズ)が、ホストを務めてくれた。世界の狩猟・採集の民の団結のなかに、世界平和創造の道を探ろうとしていた、当時の彼の発するオーラは強烈だった。
数年後の2004年1月のこと。4回目の世界社会フォーラム(WSF)がインドのムンバイ(旧称ボンベイ)で開催されるというので、ムンバイを訪れた。アルン・ガンジーさんをムンバイの自宅に訪れ、闘病中の奥さんのスナンダさんを見舞うことも目的の一つだった。
彼らの住居は貧困地区の古ぼけたアパート群の一角にあり、長男のツシャールさん一家と同居していた。ツシャールさんは、曽祖父マハトマの遺灰を政府から取り戻して、ガンジス川の源流に散布し、自然に戻した人であり、マハトマ・ガンジー財団代表をしていた。
それから19年がたった。パレスチナの地などで、平和構築の呼びかけをしていたアルンたちの運動は承知していたが、しだいに交流が疎遠となり、アルンの逝去の日に至ったわけだ。
この本は、孫のアルンの視点に立って、マハトマの言行を描くとともに、祖父の教える道を歩もうとしたアルンの足跡を活写している。翻訳の労をとっていただいた桜田直美さんに感謝したい。
(『天然人ゼミ通信』2025年1月号から転載)