――そんな学園をどう創るか
藤岡 惇
2018年初の正月休みに「NHKスペシャル・人体――神秘の巨大ネットワーク」を見た。学んだことは三つ。①脳も一つの臓器にすぎない。そんな脳の独裁を続けていくと、心身は壊れる。②臓器の間でメッセージ物質の飛び交う多角的で水平的なネットワークを作れ。③脳を介して、人生のテーマ・目標を探索しよう。目標に向かう臓器間の自発的な協働こそが健康・幸せ感の増進の秘訣だから。
人体を立命館学園に置き換えたらどうなるか。脳とは理事会、臓器を専門学部とすれば、目標探索の指針が教学理念であり、探索プロセスの歩みがリベラルアーツ(公共人・主権者を育てる教養教育)の営みではないだろうか。
立命に奉職して39年、「軍縮と平和」(後に平和学と改称)担当を志願して、31年が過ぎた。往時と比べると、今の学生には「様変わり」の側面がある。それは何か。彼らの心に響く教育をどう進めたらよいのか。昨秋の2つの事例を手掛かりに考えてみたい。
第一の舞台は、経済学部1回生基礎演習の33名クラス。突然の衆議院解散で、総選挙が迫ってきた。「日本社会の進路はどうあるべきか」の政治談議に学外は盛り上がっているのに、キャンパス内は、なぜか別世界の静けさ。わが青春の大学とは大違いだった。
1回生全員が突然、主権者となった。「そうだ、総選挙を教材にしない手はない」と、平和・安保、福祉、税制、憲法、不正疑惑など、関心あるテーマごとに学生たちを小集団に分けた。各政党の主張・政策を調べ、どの政策が優れているかを論議し、成果をシェアするーーそんな取り組みを続けた2週間だった。
学生実態につき、次のことが判明した。①政治論議も政治運動についても、実践した経験はゼロに近い。②マスコミやネット上の主流派的な情報に影響されやすく、根無し草のようになっている。③新自由主義的な人間観が強い。協同組合や自治会、政党の経験は薄く、プレイヤーとして存在感のあるのは有名株式会社。政治スタンスは、日本社会の平均よりも少し「右寄り」の印象。
彼らの生育史を反映して、主権者学習のレベルは高くないが、真面目な政治論議に飢えている面がある。クラスメイトと3時間も政治談義を積み重ねた体験は、健康なクラスを築いていくうえでの財産となった。
いまひとつは、BKCの「平和学入門」が舞台だった。2クラスあわせて600名の受講生(主に1回生)が対象だ。定期試験は行わないかわりに、30種類の設問を行う。書き上げたレポートはマナバという電子空間に提出してもらうので、他の学生のレポートも自在に読むことができる。
12月13日が南京事件80周年の日だったので、次の設問をした。「1937年7月に上海で日中両軍の本格的な戦争が始まりました。日本軍は、上海での中国軍民の数ケ月におよぶ頑強な市街戦に難渋した後、中華民国の首都南京を攻略すべく西北西に進み、12月13日に南京城内に侵攻しました。攻略戦に参加した日本軍は何名ほどでしたか。意外な長期戦による兵站の不足から『捕虜は取らない、現地で処分する』という方針を日本軍が立てた結果、太平門での1300人、城外の幕府山の1万人・・・の中国人軍民が殺されたという主張があります。敗残兵と中国軍支持の民衆との区別がつきにくいことから、一般民衆が殺害・強姦されるケースが多発したとされます。当時首都防衛のために何名ほどの国民党軍が布陣しており、落城後に、どこで何名が「処分」され、何名が逃亡したのでしょうか。また犠牲となった民衆は、どこにどの程度いたのでしょうか。」
事実判断だけを問う設問なのだが、南京事件にたいする基礎知識は、ゼロに近い。当時の歴史像を描くことに学生たちは難渋し、インターネット検索で上位にくる情報に「浮き草」のように揺れ動く受講生の実態がよくわかった。なぜこんなに情けないことになったのか。事の深刻さに受講生は気付き、狼狽え、洞察を深めてくれるだろう。
事件の実相について深い探究をなし、燦然と輝いているレポートも10篇ほどあった。受講生は意外と、他者の書いた優れたレポートには敏感だ。レポートの公開はよい刺激を与えたと思う。
専門教育とは「手段」の教育とすれば、獲得した手段を用いて、どこへ向かうべきなのか。目標地(目的)探索の営みが教養教育の使命だろう。まさに車の両輪だ。両者をどう交響させ、個々人の進路と地球社会の進路の開拓に役立てたらいいのだろうか。以下、3つの検討課題をあげてみたい。
第1に、平和学を受講できる条件に恵まれた立命生は、全学生の2-3割に留まっている。せめて4割の学生には平和学を履修し、平和ミュージアムを見学し、社会に巣立っていってほしい。学則改正は不要、開講クラス数を増やすだけで実現できるのだから。
第2に、「地球社会の平和的で民主的で持続的な発展」を担う主権者を育成するという理念を「立命館学園憲章」は掲げている。憲章の謳う理念を担う科目については、「全学共通コアカリキュラム」科目群に指定し、選択必修といった措置をとり、過半の学生が履修できるような体制を整えたらどうだろうか。どの学部を卒業したとしても、立命人としての共通のアイデンティティを培うことができる。真の大人=主権者として世界に雄飛する基盤が整うだろう。
最後に、学寮政策の具体化を急いでほしい。経済学部の学生を見ると、入学直後からビジネス社会に過剰適応した学生、生涯年収の最大化だけを人生の目的とする学生など、目的と手段とを取り違えた結果、悲劇的な歩みをたどる者が少なくない。やはり大学生活のどこかで、異なる文化・価値観と遭遇することが、人間の幅を広げ、大人に成長していくうえで不可欠なのだろう。昔風に言えば「通過儀礼」としての「出家」の必要性だ。過去の価値観から断絶する時が必要なのだ。
1年間の教育寮・自治寮での異なる学部・回生の学生との共同生活、ないし外国滞在(放浪ないし社会奉仕活動への参加が望ましい)を卒業要件にしたらどうだろうか。BKC近辺であれば、民間アパートを借り上げて、自治寮・教育寮として運営することも可能だ。青山学院大学駅伝部のように、教職員夫妻が舎監として住み込んでもらえると素晴らしい。吉田総長の提起された「英国風カレッジの原義としての学寮」にも近づいていくし、大人=主権者への成長を支える重要なインフラとして、設置されることを期待したい。
(『立命館の民主主義を考える会 ニューズ』 63号、2018年1月、4-5頁 )