和して同ぜず

――追悼 尾崎芳治先生   

                                  藤岡 惇 

 尾崎芳治先生(京都大学名誉教授)は、学部学生の2年間、大学院時代の6年間、そしてその後も折に触れて、教えをいただいた、私の恩師です。2017年9月17日に84歳で亡くなられ、同年の12月9日に、「偲ぶ会」が行われました。京都大学の法経7番教室で開かれた「偲ぶ会」への参会者は百名を越えていました。20名の方々のスピーチも、一つひとつ味わいがあり、心に沁みました。

 尾崎先生からは多くのことを学びましたが、とくに良かったのは「人生の美学」と言いますか、「何をもって人を評価したらよいのか」「その基準」を学べたことだと思います。「権力にすり寄る、上から目線人間」は信用してはならないことも学びました。

 大学改革という時代の風潮も大きかったと思いますが、当時の尾崎研究室には、「ヒトの民主化」「社会の民主化」をめざそうという時代精神が溢れていました。「偲ぶ会」の席上でも、年長世代の方は、「尾崎先生」を「尾崎さん」と呼んで、思い出を語っておられましたね。当時の尾崎研究室周辺では、先生をそう呼ぶのが普通であり、ご自身がそう呼ばれることを喜んでおられたーーそんな時代があったのです。

 1980年前後までは、尾崎先生の吸引力が強い「小宇宙」の中に、私は住んでおりましたが、その後、研究対象を現代に移したこともあり、また尾崎「理論」だけで現状を説明するうえでの限界を感じたこともあり、次第に距離を置くようになりました。尾崎先生は、そんな私を深追いしない寛容さを示される一方、私が研究会に参加した場合には、いつでも歓迎され、私の思い出や失敗談を楽しく披露されました。先生の影響圏の周辺部を「和して同ぜず」の精神で生きてきた私にとって、実に快適なポジションでした。

 「偲ぶ会」の終了後に先生の蔵書の「形見分けの集い」に参加するという名目を立てて、20名余りの皆さんに和して、ご自宅に伺いました。1980年代末頃でしたか。私の最初の本を出版した際に、感想を聞かせていただくために伺った時以来でしたので、30年ぶりの訪問でした。京阪の鳥羽街道駅からの道筋には、昔の面影は余り残っていません。しかしお家の構えは昔のまま、書籍の山はまさに森厳そのものでした。挨拶をすませて、夜道を下っていく時、京都盆地から師団街道一帯の輝く夜景が星空と一体となって、目に飛び込んできました。美しく輝くあの星の一つになられたのだなという思いに打たれて、帰路に着いたことでした。

 私も70歳、今春には立命館の特任教員のポストを退職します。先生に教えていただいたように「人生の美学」を実践して、一生を全うしたいと思います。健康であれば、あと4・5年は、「平和学」という授業を担当できそうです。幸い南草津駅からキャンパスまで上り坂を歩けば、40分ほどかかります。黒いリュックを背負い、駅から大学に至る坂道を歩いているシニアを見かけたら、たぶん私ですので、声をかけてください。「皆が譲り合いながら、幸せに生きる」、そんな「希望の惑星」を地域土着の文化圏と生態系に根差しながら、どう作っていったらよいかを、若者たちとともに探究し続けたいと願っています。

 病身をおして万感のこもる「弔辞」を述べられた本多三郎さん、当日司会を務められた西牟田祐二さん、『思い出』の編集の労をとっていただいた坂出健さんはじめ、追悼行事の成功のために力を合わせられた皆様方に心から御礼を申し上げます。

 (『尾崎芳治先生の思い出』「(2018年5月刊)への私の寄稿文から。一部、補正)