藤岡 惇
2021年8月23日、立命館大学経済学部名誉教授の川本和良先生が、京都西陣の自宅で逝去されました。同年3月に体調を崩され、検査入院で大腸と膵臓に癌が見つかったのですが、手術はせず、緩和ケアをされていました。直接の死因は急性心不全。癌による痛みが来る前の92歳の大往生でした。
私は川本先生のお家の近くに住んでいます。この日、救急車のサイレンが川本宅から聞こえてきたので、何事かと訪問したところ、逝去を知らされました。穏やかなお顔でした。
川本先生は広島市の生まれで、16歳の時に被爆。お父さんと一緒に妹さんを捜し歩き、ようやく発見したものの、何日も苦しんだ末に妹さんは他界。ご遺体を河原で焼いたという経験をなさっています。
1950年に京大経済学部に入学、大学院に進学。大野英二先生の下で、ドイツ経済史を探究され、手堅い実証にもとづく、良いお仕事をされました。京都女子中学・高校の社会科教諭を勤め、1958年に立命館大学経済学部助手に就任。1960年に西陣の妙覚寺隣の分譲団地を購入されました。偶然、私の父もこの団地の一画を買っていたので、近隣に住むこととなりました。とはいえ面識を得たのは45年前。当時中学3年生だった川本先生の娘さんが難病で他界され、葬式でご挨拶した時でした。
数年後の1979年の1-2月頃のこと。当時31歳の私は、神戸の八代学院大学に専任講師として雇われていたのですが、学園民主化をめぐる労使紛争に巻き込まれ、窮地に立たされていました。折しも立命館大学経済学部が「欧米経済論」の採用人事をするということを聞き、応募。リベラルな学園への移籍・脱出を熱望していたのです。審査にあたって、米国南部のプランテーションについての私の論文を川本先生が高く評価されていたという話を伺いました。それはともかく79年4月から私は、立命館大学助教授として再出発することができました。
同僚となって以降は、世事を含め、色々なことを議論する機会を得ました。自宅に伺った折、ワーグナー歌劇を上演したバイロイト音楽祭のレコードを拝聴したことも良い思い出です。
大塚久雄さんといえば、英国のヨーマンなど、独立自営農民の成長を西欧型市民社会形成の苗床として重視してきた歴史家ですが、川本先生は、この「大塚史学」の影響を色濃く受けておられた。そのため市民の主体性を抑圧してきたソ連・東欧型の社会への批判には厳しいものがありました。戦後改革のおかげで、日本はいかに住みやすい社会に変わったかを先生は力説され、「修正資本主義」への変貌という着想を私が抱くきっかけとなりました。
先生は立命館民主主義を愛され、学生を愛されてきました。準硬式野球部の部長、教学部長、経済学部長を務められ、1995年に定年退職されました。なかなかの健脚で、足の悪い奥様に代わって、食材・日用品の買い出しに向かう姿を何度もお見かけしたものでした。
葬儀は公益社「北ブライトホール」にて、無宗教の形で行われました。無数の白い花に囲まれ、バッハの流れる音楽葬でした。3人のご遺族のほか、身近で支えてこられたドイツ経済史専攻の山井敏章さん、晩年の呑み仲間の田中祐二さん(ブラジル経済論)と私が列席。お通夜には経済学部長の河音琢郎さんも加わられました。僧侶の読経がない分、思い出を語り合える得難い機会でした。翌日は田中さんの献じられた日本酒がご遺体にふりまかれ、芳香に包まれる出棺となりました。骨あげの場で拝見した遺骨は頑丈なものでした。その一部は、山井さんの手で、爆心地の太田川に運ばれ、散骨されたそうです。
(『立命館の民主主義を考える会』76号、2021年10月に掲載、一部補充)