藤岡 惇
2018年2月のこと、立命館大学経済学部の角田修一さんは、特任教員としての最後の講義・採点の責を果たした後に入院されました。持病のネフローゼ性腎症が悪化したためです。それから1年余、京大病院にて闘病生活が続きましたが、2019年4月17日に逝去されました。享年71歳でした。
角田さんは大阪市の生まれ。1966年に同志社大学経済学部に入学、1970年4月に京都大学大学院経済学研究科に入学し、修士・博士課程を修了されました。1976年4月に立命館大学助教授に就任され、経済理論学会・経済教育学会・基礎経済科学研究所・関西唯物論研究会などを舞台に、社会科学の発展のために尽力されました。
全学的役職をあげると、1988年に立命館大学教職員組合の書記長をされた。1996年から3年間、立命館大学夜間主コース部長、2001年4月からは3年間、経済学部長も務められた。
私が始めて、角田さんと出会ったのは1970年4月に京大大学院に入学した時でした。ともに22歳の同い年。控えめで上品な角田さんとは不思議とウマが合いました。私が立命に奉職したのは1979年4月。立命歴では3年「先輩」としての角田さんと再会したのです。
それから40年が経ち、彼には、いろんなところで助けてもらいました。「経済教育学会」の活動を創立以来、共に担いました。2014年9月に立命館で開いた、この学会の創立30周年記念大会では、実行委員長をされた。
基礎経済科学研究所「自由大学院」といえば、勤労者による当事者研究の推進を掲げるユニークな組織ですが、ゼミのチューターや研究誌の『経済科学通信』編集局長も務められました。
私生活の面では、10年余り前に、宮本佳奈さんと再婚され、宮本修一と改名されました。「現存社会主義」崩壊後の「マルクス経済学」の普及のために苦労された。2010年代の初めに労働者教育協会の地方組織・京都「学習協」の副会長に就任され、勤労者による経済学の学習運動を担おうとされたようです。「学習協」会長として孤軍奮闘されていた芦田文夫さんが、「素晴らしい後継者に恵まれた」と喜んでおられたことを思い出します。
「普遍―特殊―個別」といった論理次元の3層を軸に資本論を解釈する見田石介さんの流れを角田さんは継承されていた。私などは、この見地の意義は認めつつも、限界の面も自覚するようになっていました。「見田理論では、自然主体的唯物論という見地をどう評価するのですか」とか、「私のイノチは、わが脳の私有財産なのですか、それとも信託財産なのですか」といった問を、角田さんに投げかけるのですが、なかなか明確な答えが得られなかった。その意味で、角田さんとの研究交流はそれほど深まらなかったのですが、特任教授時代の5年間は、研究室を共有した関係で、角田さんとの交流がもっとも密であったと思います。
2019年12月1日(日) の午後、経済学部の同僚4人が世話人となり、「がんこ高瀬川二条苑」を会場に「角田先生を偲ぶ会」を開催したところ、旧友・知人の31名が集い、在りし日の故人を偲んだことでした。東山の霊山観音近くの真宗興正寺別院の宮本家のお墓に、角田さんの遺骨は納められ、眠っておられます。
(『立命館の民主主義を考える会ニューズ』69号、2019年7月所収、2022年3月25日に一部補正)